無限の人生

プロローグ

夏だというのに太陽は薄ぼんやりとしか輝かず、気温も上がらない。
この寒さのために蝉やトンボは羽化することなく、幼虫のまま冬眠状態に入った。
昆虫のいない森の植物は実を結ぶことができずに、葉を落とし、立ち枯れていった。
鳥たちは餌を求めて森を彷徨うが、何も見つけることができず、飢えと疲労で力尽きて地上に落ちた。
その肉を奪い合う醜い獣の不気味な唸り声だけが静かな森に響いている。

海は凍りつくように冷たく、北の海に棲む黒い魚が世界の海を支配した。
蒼い海も、色鮮やかな魚やサンゴもみんな死に絶えた。

大気中の水分は雪となって氷山に降り続け、大地に雨は降らなくなった。
そして草原も森も消滅し、凍てついた砂漠が世界中に広がった。

この惑星に氷河期が近づいている。

百年時代 

こんな劣悪な環境の中でも、人類は逞しく生きていた。
企業は世界中を駆け巡り、少なくなったビジネスチャンスを競い合い、国家に富をもたらした。
国際ビジネスは人口の多い国ほど有利に展開できる。
それはマーケットと生産力の両方を持っているからだ。
各国は勝ち抜くために人口拡大政策を行った。
その結果、惑星の人口は爆発的に増えた。

この惑星には、この膨大な人口を養うだけの自然は存在していない。
豊かだった自然は消滅し、ほとんどの資源は枯渇した。
大地も、海も、大気も汚れ、もはや自然は人間の住める環境ではなくなった。

各国は汚れた大気から国民を守るために、街を巨大なドームで囲み、通路で繋いでドーム都市を構築。
食糧確保のために農業ドームを大量に造り、野菜や果物を人工栽培し、人工肉も生成した。
農業ドームの植物は受粉を必要としない。
だから、受粉のための昆虫も必要ないし、管理の難しい自然の土地も必要なくなった。
おかげで病原菌や危険なウイルスの心配もなくなった。
生産はAIシステムが管理し、収穫はドローンがすべてを行う。
ドームの中では人工太陽が6時間毎に昇り、一日を4倍にして、作物の収穫をスピードアップした。
AIによる完全自動農場である。

こうして人類は自然に頼らない生存方法を手に入れた。

市場経済もAIが取り組まれてからは広告活動も営業活動も必要なくなった。
企業はAIの指示通り、市場に必要な商品を提供すれば良いのだ。
経営もAIが行っているので、株価は大きく変化しない。
それでもAIは微妙な株価変動から高速で利益を引き出す。
企業にAIが導入されてからは、取引が高速で行われるため、人間が経営に参画することはなくなった。
政府の仕事もAIがすべてを管理しているので、何事もなく運営されている。
AIに異論を唱える国民はなく、全てが順調に進んでいる。

ネットワーク社会では、国民の考えはすぐに政治に反映される。
政府は国民に公平な生活を保障するために、企業に皆雇用を義務付けた。
企業は労働者に賃金を支払うために存在し、労働者は税金を納めるために存在した。

工場もAI管理で動いているが、システムのスイッチだけはハッカーに操作されることを恐れてネットワークに接続していない。
工場には労働者の数だけスイッチが並んでいて、労働者はスイッチを見守るのが仕事だった。
だが工場は24時間稼働だから、スイッチを入れたり切ったりすることはなく、労働者は黙って座ってスイッチを見守っているだけだった。

このシステムを作ったのは天才科学者のレオナルド博士だった。
博士の作ったこのシステムは世界中で使われており、世界のバランスが取れるようになっているので、国家間の争いも起きない。
すべての国民は貧富の差もなく、苦労をすることもなく、努力をすることもなく、何事もなく暮らしている。
すべてが順調に動いていた。

こうして、人類は百歳を超える人生を手にしたのである。

千年時代

ひときわ大きなドームの最上階から荒れた大地を眺めている人がいた。
この国の大統領と博士だった。
大統領が心配そうに博士に尋ねた。

「博士、また一段と砂漠が広がりましたねぇ」

「はい、大統領。でも何の心配もありません。
人口は増え続けていますから、農業ドームをもっと増やさなければなりません。
幸いなことにドーム建設に必要な土地は砂漠の拡大によって確保できています。
これも人間社会と自然との調和というものでしょう。
大統領、ドーム建設の予算のご承認をよろしくお願いします」

「予算の件はわかった。ところで例の研究は進んでいるかね。
病気がなくなって、人間の寿命は百歳を超えるようになった。
しかし、国民からはもっと長く生きたいという要望がきている。
生活の心配はないから、生きれるだけ生きようというのだろう。
大統領選挙も近いことだし、そろそろ何かの政策を発表しなければならんのだよ。
私は、生き甲斐があるわけでもないのに、長生きしてどうする気なのだろうと思うのだがね」
大統領はそう言ってあきれた顔をした。

博士も苦笑いをしながら言った。
「ははは、人類の願いは永遠の命ですからねぇ。
科学者も、その研究が生き甲斐なのですよ。
例の研究については、近いうちに良い報告ができると思います」

大統領はチラッと博士のほうを見ただけで、窓の外をじっと眺めていた。
北の地方では激しい吹雪が続き、惑星の水分が氷へと変化し、氷山はますます大きくなり、高い山もますます高くそびえて風景を変えていた。
このままでは、雨も降らなくなり、人工栽培の水資源も足りなくなる。
学者の言うように惑星の水は一滴たりとも減ることはなかったが、水が凍り、固定化することで惑星の循環する水が少なくなった。
地熱発電も氷河期に入ってからは発電量が下がり続け、太陽発電をはじめ、多くの自然エネルギーが使えなくなった。電気が不足すると国のシステムも人工栽培システムも危うくなる。
人類の危機が目の前に迫っている。
頼りのAIも前例のないことには答えを出してくれなかった。
大統領の顔は苦悩に歪んでいた。

それからしばらくして、博士は大統領室を訪ねた。

「大統領、遂に研究は完成しました。
人類は10倍長く生きられます。だから千年は生きられることになります。
私たちもまだ900年以上生きることができます」
博士は興奮気味に報告した。

「博士、それはすごいですね。
でも、私は心配ですよ。寿命が延びるということは、人口もさらに多くなるということですね。
この国に、いやこの惑星にそんなに多くの人間が生存できるのかね?」

博士は自慢げに答えた。
「はい、大統領。何の心配もありません」

博士の千年計画は次のようなものだった。
人間の肉体は、およそ百年で耐用限界になる。
それは肉体を使用することで傷んでくるからだ。
肉体を千年維持するためには、肉体を傷めないようにしなければならない。
そのために培養液の入ったカプセルで肉体を静かに保管する。
肉体はわずかなビタミン液で維持できるから、1人分のカロリーがあれば1万人の肉体を維持できる。
この計画に必要なのは脳だけなのだが、脳を機能させるためには肉体が不可欠なのだ。
脳は身体の各部位と連携をとることによって機能している。
脳が機能することによって人間は夢を見る。
身体はベッドで寝ているのに、まるで普通に生活しているような夢を見る。
夢から覚めた時に「あれは夢だったのか」と思うほどリアルな夢を見る。
私たちは時々見たくもない怖い夢を見ることがある。
これは夢のほうに主体性があって、夢に振り回されているためだ。

この計画は夢の中で自分の意思をはっきりと示すことができるというものだ。
夢の中でも自分の思った通りに行動できる。
夢から覚めない限り、夢なのか現実なのかは判断できない。

この夢は個人の記憶をベースに構築されているので、地域の人たちも同じ夢を見る。
みんなが同じ町に暮らしている。
すべての人の脳波はAIが管理し、リンクされているので、現実と変わらない社会が存在し、いつもと変わらない生活が行われる。
大勢の人のデータが同じステージでリンクして動いているから、相手との交渉や妥協などが必要になり、普通の社会とまったく同じなのである。

脳は一番エネルギーを消耗する部位だ。
全員が考え始めると消費エネルギーは膨大になり、システムが破壊される。
だから脳が考える前にAIが脳に情報を提供する。
知りたいことがあると瞬時に情報が提供されるので、本人は自分で考えたかのように思う。
人は自分で発想したかのような満足を得るのである。

この計画を実行することで食料が不要になり、沢山の農業ドームが不要になる。
これを肉体培養ドームとして使うという計画なのである。

大統領は博士に尋ねた。
「博士、この計画では人間が植物人間になり、生きている事にはならないだろう?」

博士はにやりと笑みを浮かべ、自慢げに答えた。
「大統領、何の心配もありません。本人は生きている時と何も変わらないのです。
というより変化に気づくことはないでしょう。
わかりやすく言えば夢を見ているのと同じ状態になります。
夢の中には、街もあるし、家族や友人もいるし、自分もいるので現実社会と同じです。
夢と千年計画との違いは、すべての行動を決めるのは自分自身だということです」
 
説明を聞いて、大統領は不安そうに言った。

「博士、国民が植物人間のような生き方を望むとは思えない」
「大統領、もう選択肢はないのです。
この資源の少なくなった惑星で人類が生き残るには、この計画を進めるしかないのです」
「わかった。でも、どうやって国民を植物人間化するのだね」
「大統領、何の心配もありません。私に秘策がありますのでお任せください」

まもなく、国中に謎の伝染病が蔓延した。
しかし、すぐに予防薬とワクチンが開発された。
開発したのは博士だった。

国民は予防薬をするために病院へ急いだ。
国民の中には政府の動きに異論を唱える人もいて、予防薬を拒否した。
しかし、その人はすぐに発病し、救急車で病院へ運ばれ、治療のためのワクチンが注射された。

ワクチンを受けた国民は一日の入院で家に帰ることができた。
家に帰ると何事もなかったかのように家族と食事をした。

「おばあちゃん、今日は体調が良さそうだね」
「そうそう、病院から帰ってきてからは、足の痛みも無くなり、頭もハッキリとして、まるで若返ったようだよ。じいちゃんも若返ったみたいでねぇ」と照れた。
「あはは、じいちゃんやるねぇ。私も頭が良くなったみたいで、宿題があっという間にできちゃったよ」
「ママ、今日の料理はおいしいね。まるで一流シェフだよ」
「Mom is the best in the world」
「あれ、いつの間に英語を話せるようになったの?」
この異常な会話も、家族は普通のことだと思っていたのである。

永遠時代 

初めは快適だと好評だったシステムも、使い慣れてくると不満が出てくるものだ。
体の痛みや疲れもなく快適なのだが、ベッドに縛りつけられているような感覚に我慢できないという苦情が政府に寄せられた。
バーチャルな社会でも、市民権はいつも通り行使されるので、大統領としても軽視できなかった。

博士は大統領に呼び出された。
大統領も博士も既に植物人間化されているが、プロジェクトの主要メンバーだけは特殊なAIでサポートされていて、肉体を持っていた時と変わらない状態が保たれていた。
そして、大統領室はあらゆるネットワークから分離されており、完璧なセキュリティーの下にあった。

「博士、用件はわかっているだろうね」
「大統領、何の心配もありません。
研究はさらに進められており、まもなく新しいシステムが完成します」と言って説明を始めた。

「第一世代システムでは、人間の脳と意識は一体のものでした。
私たち科学者は長い間、脳と意識の関係を研究してきました。
研究の結果、人間の本体は意識だということがわかりました。
脳は意識をサポートするメモリー機能だったのです。
でも主体の意識も脳のサポートなしでは機能しないのです。
そして、意識にも記憶回路が存在していることがわかりました。
情報には色や形、音や映像といった数値データで示すことができるものと、感動や悲しみのようにデータで表せないものがあります。
表すことのできない情報は、物理的な脳には記録できないのです。
この情報を記憶できるのは、意識の中の記憶回路だけなのです。
例えば、富士山に登った思い出は、富士山という情報は脳に記憶され、富士山に登った時の感動は意識に記録されます。
この二つの情報がリンクして想い出が再現されるのです。
さらには、エベレストの写真を観たり、話を聞いて感動できるのは、意識の中の類似した感動情報を利用し、感動を創り出しているのです」

ここまで説明して、博士は少し間を置き、重苦しそうに話し始めた。
 
「大統領、我々がこの計画を実行してから、まもなく千年が経とうとしています。
培養ドームの肉体に限界が来ています。丁寧に管理していますが使わない筋肉も、手入れをしていない皮膚も激しい劣化が起きています。鍛えぬいた筋肉も、美しいボディも、いまは見る影もないのです。まもなく、完全に朽ちてしまうでしょう。肉体が朽ちれば脳も朽ちてしまいます。脳が朽ちれば意識も消えてしまいます」

「博士、すべてが消滅してしまうということかね」
と、大統領は厳しい口調で言った。

博士は、驚きながら答えた。
「だ、大統領、何の心配もありません。我々は永久に稼働するバイオメモリーを開発しました。
脳と意識は見えないKUDAで繋がれていて、脳とKUDAを切り離した瞬間に意識は消えてしまいます。
我々はこのKUDAを研究し、脳とバイオメモリーの切り替え方法を開発しました。
脳にバイオメモリーを並列接続し、バイオメモリーに脳を吸収させると、バイオメモリーとKUDAが繋がるのです。
そしてバイオメモリーは脳の代わりとして機能を始めます。
これで、国民に気づかれることなく、バイオメモリーと脳を交換することができます」

それから博士は誇らしげに言った。
「さらに素晴らしい研究報告があります。
脳と意識をつなぐKUDAの性質がわかりました。
この見えないKUDAは切れることなく何処までも伸びるのです」

「博士、それでは、意識、つまり自分自身は自由に動き回れるということなのかね」
「大統領、その通りです」
博士はしてやったりとガッツポーズをした。
大統領も、国民を納得させられると喜んだ。

国民は保存している自分の肉体保存情報を自由に知ることができたので、自分の肉体が耐用限界になり、もう原型を留めていないことを知っていた。
そのため、終わりがくる恐怖のために各都市では、パニックを起こした市民による暴動が頻発していた。
そこに政府から「永遠のいのち政策」が発表されたのである。
国民は永遠の命を得たことを知り、飛び上がって喜んだ。
暴動は大統領と博士を称えるパレードに変わった。

こうして国民は肉体を捨てることを歓迎した。
ついに人類は肉体から脱皮した。
蝶がサナギから脱皮して大空を舞うように変化したのである。

永遠の命を得た人々は、暮らし方の変化に驚いた。
人々は、最初その変化に戸惑ったが、徐々に意識だけの生き方に慣れていった。
生きているという思いは変わることなく実感があり、身体の不調は消え去り、とても快適だった。 
意識の移動スピードは速く、どんな遠くへでも一瞬にして行くことができた。
広大な宇宙の果てにでも一瞬で意識を移動させることができる。
まさに時空を超える行動である。
宇宙の研究者や冒険家は天の川銀河など神秘的な宇宙の芸術を見て回った。
地上ではスーパーマンのように空を飛びまわる人も現れた。
自分はできると信じること、つまりイメージすることができれば、どんなことでもできたのである。

でも、多くの人は過去の記憶に縛られていた。
自分も空を飛びたいと思って高いビルから飛び降りてみたが、途中で人間が空を飛べる訳がないと思い、
そのまま地上に落下し、恐怖のために長い間意識を失う人もいた。
飛べると本当に信じ、イメージできた人だけが空を飛べたのである。

意識だけで行動できるのは悪人も同じだった。
意識の中には過去の経験が残っており、同じ町に暮らしていた人は共通のイメージを持っている。
だから、同じ町にたくさんの意識が同時に存在する。
繁華街を闊歩し、お金のありそうな通行人に因縁をつける。
しかし、意識だけだから、睨むにも恐い眼や顔がない。
暴力を振るうにも強靭な拳は無い。
肉体がなければ何もできないのだ。
もう怖がる人はいなくなり、暴力は存在意味を失ったのである。

意識は光だった。
意識には人格と同じようにレベルがある。
意識の高い人は赤い色に輝き、意識の低い人は暗い藍色をしていた。
意識は虹と同じように様々な色を持っていた。

意識の世界でも意識を人物として認識できる。
夢の中で人物を認識しているのと同じように体を認識できるのである。
人物は意識のレベルの色で光り輝き、意識レベルに相応しい形をしていた。
つまり人格者は長い波長の光と風格ある形をしていた。
長い波長の光は赤外線なので、その癒しを求めて多くの意識が集まった。
人格の低い意識は醜い形をし、その短い波長は他人を傷つける紫外線だったので、近づく人はいなかった。
多くの意識は中間波長の緑色に輝いていたので、世界は緑色で溢れていた。
意識の世界では、意識を高めることだけが価値のあることだったので
すべての意識は波長の長い光に憧れていた。

光を持っていない意識もあった。
それは悪いことばかりをしてきた意識だった。
それらの意識は光を避け、闇の世界を好んだ。
彼らにとって、光は真夏の太陽のように眩しくて、焼けるようで、耐えられないのである。
さらに、彼らは光がないために形を表すことができない。
形がないから存在が認められない。
だから、認められたくて光を求めた。
しかし、闇に近い光は波長の短い紫外線という破壊光線だった。
彼らは明るい光にも、闇の光にも耐えなければならなかった。

もがき苦しむ闇の意識を導いたのは、白い光を持つ存在だった。
白い光はすべての波長を持ち、闇の意識にも癒しと希望を与えた。
この白く輝く光こそ、すべての意識が目指している理想の光であった。
目標があるから、すべての意識は自分の足らなさを知り、目標を目指して頑張ったのである。

しばらくして、また市民から不満がでた。
AI情報に違和感を感じ始めたのだ。

それは次のようなものだった。
「ワイキキビーチで泳いだが、どうも市民プールで泳いでいるような感覚だった」
「高級店で寿司を食べたが、回転寿司の味しかしなかった」
「はじめてできた彼女とキッスをしたが、まったく感触がなかった」

そして、最も多かったのが自分が成長できないことの不満だった。
人間には「自己を高めたい」という願望がある。
人間の成長は、たくさんの知識があるとか、記憶力が良いとか、語学が堪能とか、計算が早いとかいうものではない。
それらのことはすべてAIがやってくれることだから必要はない。

人間の成長とは意識の成長である。
意識の成長は苦労と体験の積み重ねでしか得られない。
AIを利用するようになってからは、苦労や失敗をすることがなくなっていたのだ。
知りたいことはAIが直ぐに教えてくれるから考え悩むこともなくなっていた。
やりたいことの結果は、AIが過去のデータから導き出してくれるので、あらかじめ成否を知ることができた。
人々は思考においても、行動においても苦労することなく結果を知ることができていたのである。

転生時代

博士は大統領の呼び出しを受けた。
「博士、用件はわかっているだろうね」

その日の博士はいつもとは違っていた。
「はい、大統領」と言った博士の声には元気がなかった。
そして、言い訳をするように説明を始めた。

「まず、現在のシステムについてご説明をさせていただきます。
過去の活動情報はバイオメモリーに保存されています。
そして感動情報と感覚情報は意識に記憶されています。
知りたいことや必要な情報はAIが提供します。
これで、本人は自分で考えたとか、知っていたことのように思うわけです。
ワイキキビーチで泳ぐときは、当然意識だけですから、泳いでいると勘違いさせます」

「博士、勘違いなのですか?」
「そうです。すべてバーチャルですから、泳いでいるような勘違いをさせているのです。
映像情報はAIがビッグデータから最適な映像を提供しますので、彼は間違いなくワイキキの浜辺にいると思い込みます。
問題は泳いでいる時の感覚データですが、彼の意識の記憶には市民プールで泳いだ経験しかありません。
だから、泳いでいる感覚に違和感を感じたのです。
高級なお寿司の味を知らなければ味を再現することができないのです。
キッスの体験がなければ唇の甘い感触を再現することができないのです」

「博士、それじゃあ肉体のない現在では、どうしようもないということですか・・・」

「大統領、形のない意識の記憶は我々にはどうすることもできないのです。
感情の伴わない行動は記憶にならず、AIで得た情報も感動が伴わないため意識の記憶にならないのです。

今の人間には目がありません。
だから新しい本を読んだり、風景を観るなどして感動することができません。
耳もありません。
だから、新しい音楽を聴いたり、小鳥やペットの声を聞いて癒されることもありません。
鼻もありません。
だから、香りを楽しんだり、新鮮な空気を感じることができません。
口もありません。
だから、おいしい料理やお酒の味も、あまいキッスの感覚も知ることができません。
手もありません。
だから、何かに触れて感触を楽しむこともできません。
体もありません。
だから、恋人との愛も、子供への愛も、大切な人への愛も伝えることも体験することもできないのです。

意識はあっても、意識に与える感動という情報を得ることができないのです。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚といった五感がないため感動を得ることができず、意識は成長できないのです。
肉体がこんなに重要だったとは思いませんでした」
そう言って、博士は初めて自信を無くしたようにうなだれた。

大統領は博士にやさしく言った。
「博士、効率と科学一辺倒だった時代が悪かったのだよ。
不便でも、疲れても、辛くても、苦労するって大事なことだったのですね」

体験ゾーン

しばらくして、博士は大統領を訪ねた。
「大統領、重要な提案があります。
いま我々は永遠の命を持っています。しかし、成長のできない人間なんてあまりにも哀れです。
それで、成長するための体験ゾーンを構築しようと思います」

「博士、それだよ、それを私の最後の仕事にしよう」
「大統領、最後の仕事ですか?」
「そう、最後の仕事だよ。
我々は永遠の命だからといって、永遠に同じ人が同じ仕事をしていて良いということではない。
それでは我々の世界は発展しない。
それにねぇ、私も体験ゾーンで新しい経験を積んでみたくなったのだよ」

やがて、体験ゾーンの創造がはじまった。
体験ゾーンは昔失った地上を再現するものだった。

澄んだ海とたくさんの魚たち。
青い空とたくさんの鳥たち。
豊かな大地とたくさんの獣たち。
そして、たくさんの果実が実る豊かな野山があった。

はじめに、一組の男と女を住まわせた。
子供は世界中に星の数だけ増えた。

そして、5千年が経った。

博士が言った。
「大統領、体験ゾーンができました。
ここに80億種類の体験パターンがあります。
体験したい内容は自由に選ぶことができます。
体験の内容次第で意識の成長レベルが変わります。
飛躍的に成長するには、十字架で殺されるという体験パターンもあります。
魔女と言われながら火あぶりで死んでいくという体験パターンもあります。
あまり成長は望めませんが、継母に毒リンゴを食べさせられるという体験もあります。
人情ある下町暮らしも楽しくていいですね。
転生する場所も自由に選ぶことができます。
この「とら屋」の夫婦の子供に産まれるというのも楽しそうです。

大統領、転生するといままでの記憶はブロックされるので、まったくの白紙状態になります。
当然、大統領であった記憶もなくなります。
でも戻られたら、元の記憶に新しい記憶がアップデートされ、意識を成長させることができます」

博士が寂しそうに言った。
「大統領、しばらくのお別れです。
最後にひとつだけお約束があります。
それはどんなに大変でも、どんなに辛くても、自分で終わらせてはいけません。
途中で終わらせると意識は光を失い、闇の世界に入ってしまいます」

大統領はしっかりと頷いた。
「ありがとう、博士。これで私も人間に戻れるかな?」
そう言って、ニコッと笑った。