チロと不思議な病院┃物語

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校正 令和5年1月19日(木)

バブル時代にたくさんの田舎が東京のベッドタウンに変わった。
不動産会社の乱開発で、街の道路は迷路のようになった。
電車の通っていない町の移動手段は自家用車しかない。
田舎の道は細く、通勤時間帯には慢性的な交通渋滞を起こしていた。
国は通勤路を確保するために周囲の町を貫く国道を整備した。
そのため、家の傍を国道がかすめて走っている危険な場所もできた。
三条家も門のすぐ前が国道になっている。

1 ベッドタウン

「行ってきまーす」
毎朝、元気よく家を飛び出す。
爺ちゃんの声がそれを追いかける。
「正太郎、急に飛び出すんじゃないよ!」
三条正太郎は小学三年生。
今朝も元気よく家を飛び出した。
家の門のところを器用に直角に廻っていく。

キィィィィ・・・・・ガチャガチャ・・・

勇二 ▽正太郎、危ねぇじゃないか!
正太郎▽へーんだ!そんなノロマな車なんかにぶつかるもんかい!

急ブレーキを掛けたのは、牛乳配達の軽自動車だった。
時間帯が同じなので、毎朝おなじことが繰り返される。
運転手は門から人が飛び出してくると判っていても、やはり驚く。
ここは危険すぎるのでみんなが注意をしている。
だから、事故は起きたことがない。

正太郎の両親は共働きで、東京の同じ会社に勤めていた。
住宅ブームに乗って、この町に家を購入し祖父母と一緒に暮らすようになった。
この町は住宅ばかりで会社はないから、みんな東京に勤めに出ている。
正太郎が7歳の時、両親は交通事故に巻き込まれて還らぬ人となった。
それ以来、祖父母が正太郎の親代わりになった。
正太郎は祖父母に可愛がられ、そして甘やかされて育った。
そのため性格は優しいのだが、精神的には少し弱い子供になってしまった。
でも、体だけは丈夫で、明るく活発な子供だった。

春になると庭の桜の木が満開になる。
この桜の木は両親が家を建てたときに植えた。
両親は桜の木が大好きだった。
庭に桜の木があると、開花から満開、そして桜吹雪を楽しめる。
桜の花が満開になると家族揃ってお花見をした。
正太郎はこの桜を見ると両親のことを思い出す。
近所の公園にはなかなかの桜並木がある。
道路が花びらでピンクに染まる頃、父の肩車で桜吹雪の中を散歩した。
桜の花と両親の思い出はいつまでも消えることはない。

正太郎は高校三年生になった。
大学進学か、就職するかを決めなければならない時期だ。
祖父母も学校の担任も大学進学を勧めてくれた。
でも正太郎は高齢の祖父母のことを考え、就職しようと考えていた。
正太郎は祖父母を見て、歳をとったなあと感じるようになっていた。
はやく親孝行のようなことをしたいと考えていた。
この街も今は電車の便も良くなり、東京への通勤も簡単になっている。
正太郎は就職してもこの家から通うことができ、祖父母に寂しい思いをさせることはないと考えていた。

2 社会人

正太郎は高校を卒業し、東京の会社に就職した。
仕事は営業販売だった。

正太郎▽爺ちゃん、婆ちゃん、頑張って温泉に連れてってやるからね。
祖母 ▽そりゃ楽しみだねぇ。
祖父 ▽爺ちゃんも婆ちゃんもまだまだ元気だから、無理するんじゃないよ。
正太郎、車には気を付けるんだぞ。
正太郎▽はーい。爺ちゃん、もう子供じゃないよ。

祖父母の元気な顔を見て、正太郎は今日も元気に家を出た。

正太郎はもう勢いよく門から飛び出るようなことはしない。
社会人らしく、普通に門から出る。
門を出たところで、牛乳配達の軽自動車に出合った。

正太郎▽勇二兄ちゃん、おはよう。
配達員▽おう、正太郎、これから出勤か。頑張って来いよ。

勇二の配達する牛乳を子供の頃に飲んでいた。
両親が正太郎に飲ませるために配達してもらっていたのだ。
両親が亡くなってからはもう飲んでいないが、勇二はそれとなく正太郎を見守っていた。
こうして多くの人に見守られて正太郎は元気に育った。

正太郎は会社の営業部で朝の会議中だった。
仕事は営業課長の成績発表ではじまる。
課長 ▽昨日の成績を発表します。
トップは坂本君です。頑張りましたね。
三条君、あなたはいつになったらまともな売上を上げられるんだ。
このままじゃ考えてもらわないといけなくなりますよ。
三条君には知人はいないのかな?
みんな親戚や友人を頼って頑張っているんですよ。
みんなに申し訳ないとは思わないのですか?

正太郎はこの辛い時間が終わるまで首をすくめて耐えていた。
甘やかされて育った正太郎に厳しい営業の仕事は向いていない。
しかし、高卒の正太郎を雇ってくれる会社はなかった。
バブル経済が崩壊した後も国の経済は低迷したままだった。
どこの会社も生き残りをかけて必死だった。

正太郎が面接に疲れて公園で落ち込んでいたときに声を掛けられて、このこの会社に就職することになった。
就職したと言っても給料は完全ノルマ制。
売上の悪い正太郎の給料は、給料と言えるようなものではなかった。

毎月月末になると課長の言葉はより厳しくなる。
そのためノルマを達成できないときは、婆ちゃんに頼んで内緒で買ってもらっていた。
もちろん爺ちゃんには内緒だ。

東京に知人のいない正太郎は、暮らしているこの町で営業している。
共働き家庭が多いこの町では、昼間のお客と言えば高齢者ばかり。
話をするだけで、なかなか仕事にはならない。
時間はあっという間に過ぎて夕方になった。

正太郎▽ああ、今日も売上はゼロだよ。
正太郎は夕日を観ながら呟いた。

正太郎の足はいつもの公園に向いていた。
仕事が上手くいかないときはこの公園に来る。
この公園にいると両親が慰めてくれるような気がするのだった。

3 出会い

公園に向かう途中で雷鳴と共に、大粒の雨が降り出した。
辺りが急に薄暗くなり、風が出てきて、雨はやみそうにもない。
正太郎はあっという間にずぶ濡れになった。
でも正太郎は雷も雨も気にならないほど落ち込んでいた。
惨めな自分に相応しい雨だと思い、ずぶ濡れになりながら公園へと歩いた。

落ち込んだ気持ちのまま家に帰って祖父母に心配をかけたくなかった。
激しい雨は容赦なく正太郎に降り続けた。

公園の近くまできたとき、正太郎は子犬の鳴き声を聞いた。
正太郎は激しい雨の中で耳を澄まし、鳴き声の場所を探った。
子犬は公園の大きな木の根元に置かれた小さな箱の中で震えていた。
カミナリが光る度に頭を下げてうずくまる。
どうやら雷が嫌いのようだ。
激しい雨のため、跳ねた土で泥まみれになっているが、まだ小さな白い子犬だ。
箱の中には雨に濡れた餌が入っていた。
あきらかに捨て犬だった。
子犬は冷たい雨で震えている。

正太郎▽可愛そうに・・・

正太郎は子犬が濡れないように自分のスーツで包み込むようにして抱きかかえた。
正太郎は捨てられた子犬を見て、自分と同じように思えたのである。
自分も子犬のように誰かに救って欲しいという願いもあったのかもしれない。。

正太郎は雨の中を子犬を抱いて家へ帰った。
正太郎は祖父母に気付かれないようにそーっと家に入り、そして自分の部屋に入った。
見つかったら祖父母に反対されるかも知れないし、それに年金暮らしの祖父母に子犬を飼って欲しいとは言えない。

正太郎は子犬を座らせて、タンスから新しいタオルを取り出し、子犬を拭いた。
自分が濡れていることなんか忘れて子犬を拭いた。
しばらくして子犬も安心したらしく、正太郎の膝の上で眠ってしまった。
こんなにも可愛かったのかと思うほど、子犬は白く可愛かった。
すっかり安心しているようだ。

正太郎▽良かったね。もう大丈夫だよ。

そしてやっと自分の濡れた頭をタオルで拭き始めた。

その時、部屋のドアが静かに開いた。
正太郎を心配した祖父母が見に来たのだ。
祖父母は正太郎が帰ってきたことには気が付いていたのだ。
正太郎は慌てて、祖父母に背中を向けて子犬を隠した。

正太郎▽あっ、ただいま。ちょっと濡れていたもんだから・・・・

正太郎は焦って言い訳をした。

祖父母は正太郎が子犬を抱いているのを見て微笑んだ。

祖母▽やっぱり正太郎は優しい子だねぇ。
祖父▽さあ、正太郎も濡れた服を脱いで、お風呂で身体を温めておいで。
子犬には爺ちゃんがミルクをあげておくから大丈夫!
祖母▽あらあら、可愛い子だねぇ。正太郎の婆ちゃんだよ。よろしくね。

こうして、子犬は三条家の家族になった。

それ以来、正太郎に本来の明るさが戻った。
仕事もなんとか成績を上げられるようになった。
それは、訪問先で子犬の話ばかりしていたことが良かったのかもしれない。

正太郎は仕事を終わらせると、子犬と遊ぶために急いで帰ってくる。
正太郎▽お~い、散歩に行くよ。
いいか、家から出るときは急に出てはいけないんだぞ

正太郎はいつも言われていることを子犬に話した。
それから、子犬にリードを付けて、いつもの公園に行く。

正太郎▽お前に名前を付けなくちゃならないねぇ。
なにか言い名前はないかなぁ。

公園で子犬と遊んでいると、後ろから女の子の声がした。

未来 ▽わぁ、可愛い子犬・・・触ってもいい!

正太郎が振り向くと、小さな女の子と兄らしい男の子が立っていた。

正太郎▽ああ、もちろんだよ
正太郎は笑顔で答えた。
子犬と女の子は直ぐに仲良くなった。
まるで会話をしているように、見つめ合って何かを話している。
子犬も未来を見つめて、話を聞いているようだった。
正太郎は不思議そうに聞いた

正太郎▽ねぇ、犬の言葉がわかるの?
未来 ▽うん、わかるよ。
未来はそう答えて微笑んだ。

正太郎はちょっとビックリしたが、小さな子供の言うことだからとあまり気にはしなかった。

兄らしい男の子が言った。

雷太 ▽僕は雷太、8歳。妹は未来、5歳です。

自己紹介されてちょっとドギマギしたが、自分も自己紹介をした。

正太郎▽僕は正太郎、21歳、サラリーマン。
君たちは何処から来たの?
雷太 ▽僕たちは両親がいないので、虹の家という施設に住んでいるんです。

正太郎は両親がいないという同じ身の上に、他人のようには思えなかった。
正太郎は虹の家という施設があることを初めて聞いた。
頭の中で、街の地図を辿ってみたが思い当たらない。
でも、すぐに気にするのをやめた。
自分のこと以外は関心のないタイプなのだ。

未来 ▽この子の名前は?
正太郎▽ああ、拾ったばかりでまだ名前がないんだよ。
なんかいい名前はないかな?

未来は大きな瞳をより大きくして聞いた。

未来 ▽えっ、私が考えてもいいの?
正太郎▽いいよ。色々考えるのだけれど何故かしっくりこないんだよ
子犬も納得してくれないみたいだしね。

正太郎はそう言って頭を掻いた。

未来は少し考えてから言った。

未来 ▽子犬は小さくて白い・・「ちびしろ」
これじゃあ変だから「チロ」がいい

未来が子犬に聞いた。
未来 ▽お前の名前はチロでどうだい?

子犬は嬉しそうに「ワン」と答えた。
それを見て、正太郎もチロという名前に納得した。

こうして三人とチロは大の仲良しとなった。
昼間は雷太と未来と遊び、急いで帰ってきた正太郎と合流して遊ぶという日が続いた。

4 別れ

ある日、突然、爺ちゃんが亡くなった。
そして、爺ちゃんを追いかけるように婆ちゃんも亡くなった。
正太郎はひとりぼっちになってしまった。

そんな正太郎を慰めてくれたのはチロだった。
仕事から帰ってくると、チロは正太郎の傍を離れなかった。
寂しさで気力をなくした正太郎は、公園にも行っていないし、ふたりにも逢っていない。
家に閉じこもっている日が続いた。

これではいけないと、会社には行くのだが、仕事をやる気が起きない。
それにチロを家に残して、会社に行くことも気になっていた。
仕事に行っても、売上のない日が続いた。

上司からは毎日のように厳しい罵倒を浴びせられる。
売上を助けてくれた婆ちゃんはもういない。
正太郎は、もうボロボロになっていた。

そんな中でやっとお客さんのアポを取ることができた。
正太郎▽はい、ありがとうございます。
それでは明日、資料をもって伺います。

正太郎は絶対に失敗はできないと焦っていた。

その日は朝から嵐だったので、家でお客さんに説明するための資料作りをすることにして、早めに帰宅した。。
激しい雨とカミナリが鳴り響いている。
家に帰ると、チロが喜んで飛びついてきた。
でも、正太郎にはチロと遊んでやれるゆとりがなかった。
カミナリの嫌いなチロは正太郎の足下でうずくまっている。
正太郎は必死で明日の商談のための資料を作っていた。

正太郎▽さあ、もう少しだ。頑張るぞ。

チロが正太郎を見上げても無視される。
チロは寂しさから目の前に落ちてきた紙と遊んでいた。
その時、チロの頭上にカミナリのような声が響いた。

正太郎▽チロ、何をやっているんだ!
明日の大事な資料なんだぞ。

その剣幕に驚いたチロは小さくうずくまった。
次の瞬間、チロはつまみ上げられた。
そして、玄関から雨の降る外へ放り出された。

正太郎▽仕事が終わるまで外にいろ!

そう言って、正太郎は玄関の戸を乱暴に閉めた。
突然のことにチロはただ怯えている。
外は激しい雨とカミナリが鳴り響いている。
もう外は暗くて、寒い。
チロは捨てられた日のことを思い出した。
チロは必死に玄関の戸を開けようとするが、堅く閉められた戸はびくともしない。
「ワン、ワン・・・」
どんなに鳴いても、カミナリと雨の音に遮られて、正太郎には聞こえないらしい。
チロは玄関の前にうずくまって、寒さとカミナリに震えていた。

しばらくして、チロは雷太と未来の顔を思い出した。
雷太と未来なら遊んでくれるかも知れない。
そうだ。公園に行ったら二人に会えるかも知れない。
そう思ったチロは公園を目指して走り出した。
いつものように門のところを曲がろうとしたとき、チロは濡れた枯れ葉を踏んでしまった。
「キャイン」
チロの身体は滑るように国道に飛び出してしまった。
そこにトラックが走ってきた。
暗闇の中で白いものが飛び込んできたとトラックは慌ててブレーキを踏んだ。

キィィィィ~~~

「ドン」という鈍い音をたてて、チロは跳ねられた。
即死だった。

家の中にいた正太郎はトラックのブレーキ音を聞いてドキッとして顔を上げた。
「チロ!?」
その瞬間、ものすごい勢いで部屋を飛び出し、玄関の戸を開け放ち、裸足で外に飛び出した。

正太郎▽チロォ~~~~~~~

正太郎は激しい雨の中で倒れているチロを見つけた。
すぐに駆けよりチロを抱き上げた。
チロはグタッとしていて動かなかった。
正太郎はその場で道路に座り込み、チロを抱きしめた。

正太郎▽チロォ~ごめんよぉ、ごめんよぉ・・・・・

チロを抱きしめ、雨とカミナリの中で号泣した。

運転手▽急に・・・飛び出して・・・・ブレーキを・・・間に合わなかった・・・
運転手の言い訳の言葉も耳に入らなかった。

正太郎はチロを殺したのは自分だと思った。
なんであんなことくらいでチロを叱ったんだろう。
なんでチロを外に出したんだろう。
いくら後悔しても後悔しきれなかった
正太郎は動かなくなったチロを抱いて、ひと晩中泣き続けた。
「チロ、ゴメンよ、ゴメンよ」と言って泣き続けた。
翌日も、そしてまた次の日も正太郎は会社を休んで、チロを抱きしめていた。

生きているかのようにやわらかだったチロの身体も次第に岩のように硬くなった。
正太郎はチロが死んだということを自覚した。
もう涙も涸れて、抜け殻のような正太郎だった。

正太郎▽チロを埋葬してやらなくちゃ・・・

正太郎はチロの大好きだった庭の桜の木の下に埋めてやることにした。
両親が植えた桜の木だから、両親も祖父母もチロを守ってくれるだろう。
チロは土に還り、桜の木とひとつになる。
春になってきれいな花になって、チロと逢えると思った。
正太郎はいつまでもチロと一緒にいたかった。

チロを埋める穴はできるだけ深く掘った。
この地域は山に近いから時々野生の動物が現れる。
チロが野生動物に掘り起こされることがないように深く穴を掘った。
そして、柔らかいワラに包んで静かに寝かせた。
正太郎は動かなくなったチロをいつまでも見ていた。
まだ、生きているような気がしていつまでも見ていた。
しばらくして、気を取り直して、埋めてやることにした。
チロが痛がらないように、少しずつ、静かに土をかけた。
正太郎がチロにしてあげれる最後の思いやりだった。

そして埋めた上に大きな石を並べた。
これでもう掘り起こされることはないだろう。
それから、仏壇から線香と花瓶を持ってきて、その石の上に並べた。

正太郎▽チロ、お別れだね

そう言って、いつまでもその場に座っていた。
チロとの楽しかったことが走馬灯のように思い出される。
もう逢えないことに耐えられなかった。

正太郎▽チロ・・・チロ・・・
チロを呼びながら正太郎はお墓の前にうずくまって泣いた。

未来 ▽お兄ちゃん・・・・

その声を聞いて、正太郎は振り返った。
未来と雷太が立っていた。

未来が聞いた。
未来 ▽チロ、死んじゃったの・・・・

正太郎は黙って頷いた。
もし声を出したら、そのまま泣き出してしまいそうだった。
しばらく無言の時が流れた。

雷太 ▽お兄ちゃん、チロとお別れしてもいい・・・

雷太はそう言って、正太郎の顔を見た。
正太郎は声も出せず、ただ頷いた。
その顔はもう涙でぐちゃぐちゃになっていた。
未来がいつまでもチロに話しかけていた。

正太郎はやっとの思いで、チロの死んだ経緯を話した。
話し終わると同時に号泣した。

正太郎▽チロはオレが殺したんだぁ・・
チロ、ゴメン、ゴメンよぉ

未来と雷太も一緒に泣いていた。
気が付くと二人は正太郎の肩を抱いていた。
正太郎のことを心配しているのだ。

雷太が正太郎に言った。

雷太 ▽チロと遊んだ公園に行こうよ。
未来がチロのお墓に声をかけた。
未来 ▽チロ、一緒に公園にいくよ。
正太郎にはチロのワンと鳴く声が聞こえたような気がした。

三人は公園に行った。
そして、桜の木の下に座ってそれぞれがチロのことを思い出している。
三人の目には走り回っているチロの姿が見えているのだろう。

未来 ▽お兄ちゃん、頑張ってね。
また、チロと遊びに来ようね
頷きながら、正太郎はまた号泣しはじめた。

5 決意

その時、急に強い風が吹いて枯れ葉を舞い上げた。
枯れ葉の下から土に汚れた一冊の本が顔を出した。
正太郎はなにげなく本を拾って、汚れを落とし、表紙を見た。
それは、愛犬との暮らしを書いたエッセイだった。
正太郎はその本を夢中で読んだ。

突然、正太郎が大きな声で言った。
正太郎▽オレ、作家になる。
そして、チロのことを本に書くんだ。
チロが本の中で生き続けるんだ。
オレ、作家になる!

二人は突然の正太郎の宣言に驚いたが、正太郎の輝いている眼を見て喜んだ。

未来 ▽そうだよ。チロが生き返るよ。お兄ちゃん、作家になりなよ。
雷太 ▽そうだよ。作家が良いよ。チロも喜んでくれるよ。

翌日、会社にメールで辞表を送り、作家を目指すことにした。
文章なんて書いたことのない正太郎は基礎から勉強を始めた。
町の図書館で文章の書き方の本をたくさん借りてきた。
それから、家に閉じこもって勉強を始めた。
朝から晩まで本を読んで勉強した。

しばらくして、正太郎は何も食べていないことに気が付いた。
同時に、お金のことも気になった。
給料の少なかった正太郎に貯金などあるはずもなかった。
まだ遺品整理もしていなかった祖父母の預金通帳を探した。
通帳は茶ダンスの引き出しに入っていた。
預金通帳を見て残額の少なさに驚いた。
出金の記載を見て更に驚いた。
正太郎の商品を買うために引き出したことがわかった。
そして。その回数の多さに驚いた。

正太郎▽こんなに買ってもらっていたんだ。

正太郎は婆ちゃんにすごい迷惑を掛けていたことに気が付いた。
自分の不甲斐なさのために、婆ちゃんが苦労していたことを思うと自分に腹が立った。

引き出しの奥の方に「正太郎」と書いた封筒があった。
何かなと思って中身を見ると、定期預金の通帳だった。
名義は「三条正太郎」になっている。
祖父母が年金を工面して続けていた定期預金だった。
もう満期になっている。
これでしばらくは食べていけると祖父母に感謝し、そして泣いた。

正太郎▽爺ちゃん、婆ちゃん・・・ありがとう・・・

それから正太郎は必死になって本を書いた。
知人に東京の編集者を紹介してもらい、事務所まで訪ねて行って読んでもらった。

その結果は散々だった。
「いったいこんな本を誰が読むのですか?」
「あんたは何を書きたいのですか?」

そのチャレンジは何回も続いた。
結果は、いつも散々だった。

そのうち編集者も呆れて言った。
「勉強なんかやめて、自分の心と話しなさいよ」
「オリジナリティがないんだよ」
「もっと素直に書きなさいよ」

それは、アドバイスでもあった。
しつこいくらいに一生懸命な正太郎に本音をぶつけてくれたのだ。

6 悩み

正太郎はチロのお墓の前で考える日が続いた。
チロと話をしている。
「そうだよね、チロ。勉強した結果、モノマネになっていた」
そのことに気が付いた正太郎は自分探しを始めた。
本からヒントを探したのが良くなかった。
ヒントは自然の中で自分の感じる事から始めよう。

一人っ子の正太郎は小さい頃から自然観察が好きだった。
自然には現実という真実しかない。
人間社会のような都合の良い言い訳やウソはない。
自然から学ぶには自分の気持ちを空っぽにすればいい。
そうしたら、自然は不思議な世界を見せてくれる。

正太郎と未来と雷太は毎日のように近くの森に行った。
小さな虫を探し、観察した。

正太郎▽アリってすごいなぁ
雷太 ▽お兄ちゃん、カブトムシとクワガタの相撲が始まるよ
未来 ▽お兄ちゃん、チョウチョに生まれ変わるところだよ。
三人とも夢中になって観察した。
でも決して森の奥に入ることはなかった。
深い森は危険がいっぱいだと爺ちゃんが言っていたからだ。

7 森の中

森の奥には薄暗く別な世界があった。
痩せたキツネが一匹のウサギを狙っている。
キツネはもう何日も食べていないので体力も限界だった。
このウサギを捕らえることができなかったら死ぬしかない事を知っていた。
キツネは最後の力を振り絞って大きく跳びはね、ウサギに襲いかかった。
キュンという悲鳴をあげて、ウサギは死んだ。
キツネは自分の後ろを振り返り、小さく鳴いた。
すると、茂みの中から子ギツネが三匹出てきた。
子ギツネも何も食べていないのだろう。
骨が浮き出るほどに痩せている。
子ギツネが食べている間、母親キツネは周囲を警戒している。
子ギツネを狙っている動物はたくさんいる。
森の奥では一瞬も気を緩めることはできない。
母親キツネは子キツネが食べ残した僅かな肉片を食べると森の中に消えた。

すると、小さな動物がウサギの死骸に群がってきた。
完全に食べるところがなくなるころには腐敗が始まる。
森の奥に腐敗による悪臭が漂う。
その匂いに誘われて虫たちが集まる。

こうして一匹のウサギは多くの動物たちや虫たちの命を支えている。
さらに、腐敗した死肉を食べるカモメもいる。
カモメは虫が集まっているところに乱暴に飛び込んできた。
虫たちは一斉に飛び立った。

その時、森の奥に強い風が走った。
その風に一匹の虫が巻き込まれた。
風は森の奥から外に向かって吹いた。
巻き込まれた虫も一緒に森の外へと飛ばされていく。

その風は観察に夢中になっている正太郎たちのところへ吹いた。
そして、その虫は正太郎の目に入った。

正太郎▽ウッ・・・・

正太郎は思わず目を擦った。
その時、正太郎の目の中で虫はプチッと潰れた。

8 森の中の病院

正太郎の目に入った虫は腐敗した菌を持っていた。
まもなく正太郎の目に激痛が走った。
目の玉が菌に侵食されたのだ。
あっというまに菌は正太郎の視力を奪った。

正太郎▽痛い・・・・焼けるように痛い・・・。
早く街に戻って、病院に行かなければ・・

正太郎は薄らいでいく視力で方向を探った
しかし、観察に夢中になっていたため、入ってきた方向が判らない。
雷太と未来が回りを見渡して道を探した。

未来が木陰から小道を見つけた。
細い道だが、きちんと草が刈り取られていて、きれいに整備されている。

未来 ▽きっと、この道で大丈夫だよ。
と未来が言った。

正太郎は二人に手を引かれて、小道を進んで行った。
三人はどんどん山奥に入っていく。
こんな山奥に入って大丈夫なのかと不安になった。

雷太 ▽ねえ未来、本当にこの道で大丈夫なんだろうか?
未来 ▽大丈夫だよ。この道が大丈夫と言っているよ。
正太郎 ▽・・・・・・・・・

しばらく進むと目の前が大きく開けて、きれいな庭が現れた。
そして、白いお屋敷のような建物があった。

正太郎はかすむ目で建物に掛けられている看板を見た。
まるで記号のような言葉で書かれていて、意味も理解できなかった。。
でも、雰囲気からここは病院だと思った。
雷太が入り口に吊り下げられている大きな鐘の紐を引くと、カランカランと気持ちのいい澄み切った音がした。
そしてすぐに看護士さんらしい女性が二人出てきた。

看護士▽ようこそいらっしゃいました。
院長先生が待っています。
こちらへどうぞ。

二人はハモって話す不思議な響きは、さっきの鐘の音と同じように思えた。

正太郎は看護士さんに手を引かれて、一階の診療室に入った。
正太郎はかすかに残った視力で院長先生を見た。
白い髭を蓄えた大柄の先生で、まるでサンタクロースのようだと思った。
正太郎はこの時を最後に視力を失った。
正太郎は痛みに耐えながら経緯を説明しようとした。

院長 ▽正太郎さん、何も言わなくても大丈夫ですよ

院長は正太郎の顔をのぞき込んだ。

院長 ▽正太郎さん、片眼は見えなくなるが、それでも大丈夫かね
院長が聞いてきた。

正太郎は驚いて聞き返した。
正太郎▽院長先生、まだ見ることができるのですか?
院長 ▽はい、ここに来るのが早かったので、右目は回復しますよ。

正太郎はここまで歩いてくる間に考えていた。
このままでは目は見えなくなる。
目が見えなくなったらチロの本が書けなくなる。
最後の最後まで駄目な自分だと落ち込んでいた。
でも、片眼が残ってくれる。
チロの本が書ける・・・
最後の夢はまだ繋がっている。

正太郎▽院長先生、片眼があれば充分です。
よろしくお願いします。

院長は頷いて正太郎の目を大きな両手で覆った。
その手には不思議な温かさがあり、次第に痛みが和らいでいく。
おおきな優しさに包まれている感じがする。
正太郎は「ああ、婆ちゃんの手と同じだ」と思った。

院長の手が離れると、もう痛みはなかった。
しかし、同時に左目は失っていた。

院長が言った
院長 ▽片眼の生活に馴れるまで、少し入院していきなさい。

二人の看護士さんに手を取られて階段を上がり、右側に曲がって病室に向かった。
その途中で左側の病室が見えた。

正太郎▽看護士さん、外から見たより中は広いですね。
だけど、向こうの病室は暗いね。なにか不気味な感じさえするよ。
すると廊下まで聞こえる怒鳴り声が聞こえた。
なんと言っているのかはわからないが、看護士さんに文句を言っているようだった。
正太郎は「向こうの病室は重傷の患者さんが入院しているのですか?」と聞いた。

二人の看護士さんは正太郎の顔を見上げて言った。
看護士▽あの患者さんも三日ほどで退院する予定です。
正太郎さんには、向こうの病室が暗く見えるのですか?
そう言って看護士さんは悲しそうな顔をした。

看護士さんに手を引いてもらい、病室に入った。
嬉しいことに雷太と未来も一緒だった。
病室に入って、未来が驚きの声をあげた。

未来 ▽きれい・・可愛い・・・すてき・・・
雷太 ▽すげぇ、お兄ちゃんすごい部屋だよ
病室とは思えないおしゃれな部屋だった。
そして、雷太と未来のために可愛いベッドまで用意してあった。

未来 ▽わあ、すごい
未来が窓から外を眺めて、驚きの声をあげた。
未来の声に誘われて正太郎と雷太も窓から外を覗いて驚いた。

雷太 ▽えっ、ここは二階だよね。
まるで空に浮かんでいるみたいだ・・・

正太郎も片眼をこらして窓から覗いた。
窓の外には綿菓子のような雲がたなびいている。
遠くには山々が見え、大きな虹が架かっている。
淡い色のついた風がほのかな香りを乗せて吹いている。
雲の間から遙か遠くに庭の芝生が見え隠れしている。
不思議な風景に驚いていた。

未来 ▽この雲、ふわふわのお布団のようだね
未来はそう呟くと、窓から雲に向かって飛び出した。

それを見た正太郎と雷太は真っ青になって窓からのぞき込んだ。
もちろん、雲の上に未来がいるわけはなかった。
雷太も窓から雲の中に飛び出そうとしている。
正太郎はあわてて雷太を止めて言った。

正太郎▽落ち着け、落ち着くんだ
正太郎は自分にも言い聞かせるように言った。

すると病室のドアが開いて、未来が看護士さんに連れられ、笑顔で入ってきた。
雷太と正太郎は未来に駆け寄り「大丈夫か?」と聞いた。
未来が楽しそうに話をした。
未来 ▽雲はふわふわでね、とても気持ちが良かったよ。
気が付いたら庭の芝生の上にいたんだよ。
そうしたら看護士さんが迎えに来てくれたんだよ

正太郎も雷太もなにがなんだかわからないまでも、未来が無事だったことにほっとした。
未来は二人の目を盗むようにして後ろに下がっている。
そして、また窓から飛び降りようとした。
しかし、雷太が待ち構えていた。

雷太 ▽未来、いい加減にしろ。
お前のやることはお兄ちゃんがお見通しだ。

未来は少し不満そうだったが、兄には逆らえなかった。

正太郎は不思議な病室も自分の中に受け入れることにした。
院長の雰囲気、看護士さんはみんな同じ顔をしている。
こんな病院があるなんて聞いたことがない。
みんな説明のつかないことばかりだったが、自分の目を治してくれた事実だけは確かだった。
自分は不思議な運命の中にいるようだと考えていた。
この病院がなかったら自分は間違いなく森の中で死んでいただろう。
失うものは何もないという思いが、この不思議な運命を受け入れようという気持ちになっていた。
そう思うとこの入院生活は快適だった。
雷太と未来の二人も一緒にいてくれる。

食事はとても美味しかった。
毎回、看護士さんが食事を運んでくれる。
こんな規則正しい生活をしたことはなかった。
容体が変化しないかを夜中でも見に来てくれる。
一番不思議に感じたのは、看護士さんの言葉使いだった。
子供をあやすようだったり、母親のようだったり、子供が話すようだったりする。
優しく話す中に、絶対に譲れないという強さがあるが、決して強制的ではない。
心地よく従ってしまう。
営業をやってきた正太郎は、こんな風に話せたら良かったのにと思った。
強くて優しい看護士さんも不思議な世界の人だと思った。

9 審判

三日目の朝、病室に院長がやってきた。

院長 ▽さあ、今日で退院だよ。
退院の前に最後の検査があるからね

それだけを告げると、直ぐに部屋を出て行った。
いつもの穏やかな院長とは違って、今朝は険しい表情をしていた。

看護士さんが言った。
看護士▽今朝はお二人の患者さんが退院ですよ
    ご自分の洋服に着替えてくださいね。

看護士▽さあ、行きましょう。

正太郎は一階の大きな診察室に案内された。
はじめて入る部屋だった。
不思議な空間で、見えるのは足下の床だけ。壁も天井も見えない。
暗くて見えないのではなく、透明になっているような感じがする。
音は何もなく、静けさを超えた静寂さだ。
解りやすくいえば「無の世界」と言えるかも知れない。
この病院に来て不思議なことには馴れてしまった正太郎もちょっと驚いた。

先に診察を受けるのは、暗い病室で怒鳴っていた患者さんだった。
その患者さんは診察用の椅子に座るとすぐに怒鳴り始めた。

患者 ▽さっさと退院させろよ。
これでまずい食事も食わなくてもいい。
退院したら分厚いステーキを食いに行くんだ。
もう閻魔のような院長の顔も見たくない。
愛想の悪い看護士なんかもうゴメンだ。
オレはすぐに退院するぞ。

患者は悪態の限りを尽くしている。
そう言い終わったとき、その患者の顔色が変わった。
恐怖に怯え始めたのだ。
黒いスライムのようなものがつま先からジワジワと這い上がってくる。
黒いスライムのようなものは闇の使いだった。
二度と甦ることのないように存在を消滅させるのが役割なのだ。

闇の使いは胸の辺りまで這い上がってきた。
それには鋭い目があり、患者を見つめている。
心の中まで見通す目だった。
何処ともなく声が響いてきた。
闇の使い▽お前は小学生の時、足の悪い子を虐めただろう。
患者 ▽イジメはオレだけがやったわけじゃない。
みんなでやったんだ。
オレだけが悪いんじゃない。
また、太い声が響いてきた。
闇の使い▽お前がイジメなかったら、誰もイジメなかったのだ
闇の使い▽その子はその後で自殺したことをお前は知っているか?
患者  ▽そんなこと知らないよ。
死んだのはアイツが勝手にやったことだ。
オレには関係の無いことだ。
闇の声は言った。
闇の使い▽お前がいなかったら、あの子は死なずにいた。
あの子は研究者になって世の中の役に立つはずだった。
お前はこの世でもあの世でもいないほうがいい人間だ。
お前という存在は消滅してもらう。
二度とこの世に現れることのないように消滅させる。
ほかの闇の使者も声を揃えて言った。
闇の使い▽お前は存在しない方が良いのだ。消滅だ。永遠に消滅だ。
闇の使い▽お前は病人から最後のお金を取っただろう。
そのため病人は飢えて死んだ。
お前が殺したんだ。
患者  ▽借りた金を返さない方が悪いんだ。
オレは悪くない
闇の使い▽お前は命よりもお金の方を選んだ。
お前は存在しては駄目な人間だ。
お前は消滅だ。
永遠に消滅だ。
患者は泣き叫んだ。
患者 ▽いやだぁ、消滅なんていやだぁ
患者は闇に全身を覆われていた。
患者 ▽助けてくれぇ。消滅なんていやだぁ

低い声が響いた。
闇の使い▽お前に弁解のチャンスをあげよう。
お前が今までやってきたことで良いことは何だ。
さあ、答えて見ろ
お前の魂を残してもいい理由があれば許そう

患者は焦って考えたが、何も思い付かなかった。
患者は自分の人生を全部思い出したが、言えることが何も無かった。
患者は納得してうなだれると、闇は全身を覆い尽くした。
そして、壁の向こうの闇の世界に引き込まれていった。

この時、正太郎は知った。
正太郎▽オレ、死ぬんだ。
   いや、もう死んでいるんだ。
   あの山の中で死んだんだ。
ここで裁かれて行き先が決められるんだ。
オレは治ったんじゃなかったんだ。
正太郎は自分の置かれている立場を理解した。

あの患者が優しい院長を閻魔のようだといった意味がわかった。
いい人は天国に導いてもらえるから神様に見えるが、悪い人には地獄行きを決める閻魔に見えるんだ。

院長が静かに話し始めた。

院長 ▽これから起こることは、私たちが決めているのではありません。
すべて、患者さん自身、あなた自身が決めているのです。
私たちは、その決定を見守るだけです。

私が閻魔に見えるのは、患者さんの心がそのように見せているのです。
正太郎さんが暗い病室だと思った病室は、正太郎さんの病室と同じ作りの病室です。
暗い部屋に見えたのは、正太郎さんの心がそのように見せたのです。
看護士さんが悲しい顔をしたのは、正太郎さんの心が見えたからです。

同じ食事をお出ししても、美味しいと思う人と不味いと思う人がいるのです。
食事の味は変わらないのに、食べる人によって変わるのです。
患者さん自身が決めていることなのです。

もうひとつ大事なことは、世の中というのはすべて繋がっているということです。
あなたの良い行いも悪い行いも運命のロープで繋がっています。
見えるのはロープのほんの一部だけです。
でも見えないロープの先まであなたの行動は伝わっていくのです。
あなたが知らなくても、あなたに自覚がなくても、その責任はあなたにあるのです。

「情けは人のためならず」という言葉を知っていますか?
あなたが誰かにかけた情けは、いつかあなたに戻ってくるということです。
あなたが誰かを助けると、誰かがまた誰かを助ける。
運命のロープを伝わって、あなたが助けられるのです。

正太郎さん、あなたは作家になりたいという夢を持っていますね。
もうあなたは作家というロープを持っているのです。
あなたの作家になりたいという熱意がロープに伝わり、みんながそのロープを握ってくれるのです。
そうして、作家になるための多くの人と出会うのです。
正太郎さんが夢を諦めたら、そのロープは消えて夢も消えてしまうのです。
運命とは一本のロープにみんな繋がっているのですよ。

ここでは、そのことに気付いてもらいたいのです。

みんなが幸せに暮らせる世界は「たい焼きに似ています」
おいしいたい焼きはアンコ作りが大切なのです。
おいしいアンコは、良い小豆を選ぶことから始まります。
良い小豆だけで作るからおいしいアンコができて、おいしいたい焼きになるのです。

正太郎▽悪い小豆を取り除くと言うことですか?
悪い小豆には色や形が悪いとか、皮が破れているとか難しそうですね。

正太郎が質問すると、院長が答えてくれた。

院長 ▽正太郎さん、悪いものを覚える必要はありません。
良いものだけ、本物だけを覚えればいいのですよ。
本物が判れば、悪いものは簡単に見分けができます。

心は本物をよく知っています。
だから、悪い事をすると心が痛むのです。
自分が良いのか悪いのかは、自分の心で判断できるのです。
だから判断するのは私たちではなく、患者さん自身なのです。

運命の記憶は決して消えないように心に記憶されています。
他人にウソは言えるけれど、自分にウソは言えないのです。
ここでは心の中の記録がすべて現れます。
その記憶を知って、自分ですべてを決めるのです。

こうして魂は浄化されるのです。
それは悪い魂が消えていくからです。
それが闇の世界への消滅です。
消滅は刑罰ではなく、なかったこととして消えるのです。

どんな結論になろうとも、私たちは見守るだけです。
誰かに判断されるのではなく、自分自身で判断するのです。
正太郎さん、判って頂けましたか。

そう言って、院長は正太郎を椅子へ案内した。

正太郎は考えていた。
自分はさっきの患者のような悪党じゃないから心配はない。
どちらかと言えば良い人の方だろうと考えていた。

でも、その考えはすぐに変わった。
足下から闇の使いが昇ってきた。
恐ろしい目をしている。
心の中を覗いている目だ。
やがて、低い声が響いてきた。

闇の使い▽お前は優しい婆ちゃんに売れない商品を買わせていただろう。
正太郎 ▽そうだけど、婆ちゃんは喜んで買ってくれたんだよ。
闇の使い▽婆ちゃんは、爺ちゃんに見つかって怒られたのを知っているのか?
婆ちゃんは自分の食事を節約していたのを知っているか?
婆ちゃんがお腹を空かしていたのを知っているか?
正太郎 ▽し、知らなかったよぉ
闇の使い▽知らないからといって罪が許される訳ではない。

闇の使いはさらに続けた。
闇の使い▽牛乳配達の車を毎朝驚かしていただろう
正太郎 ▽ああ、あれは冗談みたいなもんだよ
闇の使い▽その後で、割れた牛乳を弁償していたのを知っているか?
彼には病気の妹がいて、病院代で苦労していたのを知っているか?
彼は牛乳を割ることで店を首になるところだったことを知っているか?
正太郎 ▽そんな、そんなことが起きているなんて知らなかったよ
闇の使い▽知らなかったと言って、罪が許されるわけではない

闇の使いは正太郎の首の辺りまで迫っていた。
看護士さんが言った。
看護士 ▽雷太くん、未来ちゃん。正太郎さんの良いところはないの?。
良いところを言ってやると闇の使いは離れていくよ。

二人は一生懸命に考えた。
でも、何も思い付かなかった。
二人は焦るばかりで、何も思い付かなかった。

闇の使いは正太郎の首まで飲み込んでいた。
この時、未来が言った。
未来 ▽お兄ちゃんは優しいもん
捨てられていたチロを助けたもん

その時、白い光が現れ、闇の使いにかかっていった。
それはチロだった。
「チロが助けに来てくれた」と未来が叫んだ。
そして、捨てられていた子犬や猫たちがチロと一緒に闇の使いにかかっていった。

正太郎はチロに助けられたと思った。
その時、闇の使いが言った。
闇の使い▽正太郎、お前の所為でチロは死んだのだ。
ほかの闇の使いも言った。
闇の使い▽そうだ。お前の所為でチロは死んだ。
チロは何も悪い事はしていないのに死んだのだ。
お前は必要のない存在だ。消滅すべき存在だ。

正太郎は闇の使いの言葉に返す言葉がなかった。
正太郎 ▽そうだよ。オレの所為でチロは死んだ。
チロに助けてもらえる資格なんてないんだ。
そう言って、正太郎は静かに目を閉じた。

闇の使いは勝ち誇ったように正太郎を飲み込んでいった。
最後の目が飲み込まれようとしたとき、チロが翔けよって正太郎の目をペロッと舐めた。
正太郎は目を開けてチロを見た。
正太郎 ▽チロ、ごめんね
チロは嬉しそうにまたペロッと舐めた。
正太郎 ▽チロ、オレを許してくれるのかい?
チロは嬉しそうに「ワン」と鳴いた。
正太郎の目から大粒の涙が溢れ出た。
正太郎 ▽チロォ~逢いたかったよぉ。
ゴメンよ、チロォ~
正太郎は号泣し、滝のように涙が溢れた。
チロに許してもらったことが嬉しかった。

正太郎 ▽チロー、チロー・・・・

気が付くと、闇の使いは涙で洗い流されていた。
正太郎の体はきれいになっていた。

チロはそれを見ると、嬉しそうに仲間と一緒に天へと昇っていった。

正太郎は叫んだ。
正太郎 ▽チロォー、オレも連れて行ってくれ~
 チロォ~

10 退院

未来 ▽お兄ちゃん!
雷太 ▽正太郎お兄ちゃん!
その呼びかける声に正太郎は目を醒ました。
雷太と未来が心配そうにしていた。
回りを見ると病院は消えており、三人は芝の上にいた。
正太郎が空を見上げると、光が昇っていくのが見えたような気がする。
そして森の奥から悲鳴のような声が聞こえたような気がした。

正太郎は恐る恐る左目に手をやった。
正太郎の左目は失明していた。
でも、痛みはなかった。
正太郎は不思議だったけど、きっと現実だったのだろうと思った。
チロが許してくれたということがなによりも嬉しかった。
片眼がなくなったことなんか問題ではなかった。

三人は小道を歩いて行った。
遠くに街が見えてきた。
雷太が正太郎に聞いた。
雷太 ▽ねえ、正太郎兄ちゃん、片眼だと不便じゃない?
正太郎▽命が助かって片眼も残してくれた。
それにねぇ、見えない目で見えるものが増えたような気がする。
まだチロの本を書くという夢を追い続けることができる。
こんどの経験を本に書こうと思っているんだ。

でも、左目がないと左側に見えないところができて、そこに何かがいるような気がしてならないんだよね。

その時、正太郎の左の死角には闇の使者が隠れていた。
闇の使者は正太郎を闇へ引き込む条件を見つけるために住み着いていた。
闇の使者は現実の世界ではないので、誰にも見えない。
闇の使者はニヤリと笑った。
その時、正太郎の見えないはずの左目がギョロリと睨んだ。
闇の使者はビックリして逃げるように正太郎の後ろへ移動した。
そこへ未来の下駄が飛んできて、闇の使者を思いっきり蹴飛ばした。
闇の使者は見つかったことに驚いて正太郎の影の中に潜り込んだ。

正太郎▽さあ、もうすぐ家だよ
チロに許してもらった正太郎の心は晴れ渡っていた。

その頃、天では
看護士▽ねぇ、院長先生。どうして正太郎さんを連れてこなかったの?
院長 ▽正太郎にはまだやり残したことがあるからね。
その代わり左目を持ってきたよ。

そう言って、手の中の左目をポンと空中へ投げると、光になって飛んでいった。
院長 ▽きっと、チロのところに行ったんだよ
そういって、微笑んだ。

11 作家

数年後、正太郎は一冊の本を書き上げた。

本のタイトルは「チロと不思議な病院」だった。

おわり

原作 2022年11月12日(初稿)

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